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ミステリと言う勿れ、面白かった。人と人がわかり合うことの難しさ。

いや、最近すっかりご無沙汰ですみません!Niicanです。

新年1発めです。色々忙しかったんですが、落ち着いたので、最近思うことを書きますね。

ミステリと言う勿れ、をみて思った。

ミステリと言う勿れ。の主人公のセリフから。

「真実は人の数だけある。(というふうな内容)」

これを聞いて、ふーん、たしかに!と思ったんですね。

もともと、コロナに対する反応に思っていたこと

もともと最近、コロナのワクチンに対するネットニュースの反応に触れて、「まあいろんな考えがあるな」、と思っていました。

それが、正義感や危機感、怒り、恐怖に就職されているから、たちが悪いんですね。

例えば、極端な例では、

「コロナはただの風邪」:→であってほしい。そうして、店を通常営業したい。でないとやっていけない!なんか知らないけどテレビの医者もそう言っていた!

「ワクチンは危ない!」:→だって、知り合いの知り合いが、具合が悪くなったって聞いたし。WHOも嘘つきだ、医者も金儲けのことを考えているに違いない!

というふうに考える人がいますよね。

この偏った人達は、自分に都合のいい意見しか取り入れません。

ニュースならまだいいんですが、しかもTWITTERなどでは同じ意見や正反対の意見が増幅されるんですよね。まさに地獄絵図ですね、、、

専門家の先生も頑張って啓蒙してくれているのですが、炎上されることも多いようで、大変だなあ、と思ってみています。

私は少し達観しているようなところもあるので、この減少を興味深くみていたんですね。

そこで、この「ミステリと言う勿れ」の主人公のセリフがあり、唸ってしまいました。

コロナ禍における混乱と、本来の科学

本来は科学って、客観的な事実、再現性のあるデータを重視して、これらの主観から距離をおいて正しい判断をするための道具、考え方なのですよね。

これを用いるのが人類のたどってきた進歩だし、理系の人の基本的な考え方のはずです。

ところが、テレビをつけてみるとどうでしょうか。

国際XX学者、とかの、職業コメンテーターばかりが、好き勝手な意見を言っています。

もちろん詳しい分野もあるんでしょうが、高度に学問が専門化された今、全くお門違いであることが多い。

口の達者な寿司屋が、ピザの批評をしているような状態になっています。

なぜこのような状態になっているのか。

科学の専門家が出て、専門の理論を持ち出しはじめると、難しすぎて面白くなくなるからですね。

制作側は、議論よりも視聴率を重視しているので、内容は二の次なんですよね。

視聴者も、真実(近いもの)を知りたいようで、その根拠にたどり着くためのめんどくさい過程はとばしてしまいたいんですね。

原著は読みたくない。ググって済ませたい。漫画なら読める。程度のもんなんですよね。ほとんどの人は。

でも、心配はあるので、安易なメディアの意見を聞いて、もっともらしいものを選んで、自分に受け入れやすい意見を見に付けていく。

これが現在の縮図だと思います。

本当にそれで、正しい選択ができるでしょうか。

裁判には検事、弁護士という法律の専門家が事実をぶつけて、何回も審理をして、さらに第三者である裁判官が判決を下します。

これが、一般人が何人も出てきて、証拠をほとんど吟味することなく自分の感想を訴えるような状態になってしまっていますよね。

すいません、少し脱線しました。

ここで私が言いたいことは、客観的な視点を持つことは、膨大な知識の積み重ねが必要で、とても難しいこと。

これを身に着けている人はいるが、その内容はしばしば何回で、必ずしも大衆がすぐに受け入れられるとは限らない。

人は簡単でわかりやすく、都合のよい事実を知らず知らずのうちに取り入れてしまう習性がある、ということです。

人と人は、基本わかりあえない。

これ、わたしの尊敬するサウザーさんhttps://voicy.jp/channel/657とかフランケンhttps://note.com/franken_stein/さんが言ってたことなんですけど、ホントそうなんですよね。

いつも、いろんな身近な問題を、(科学的な視点で)説明しようとしたり、説明を聞いて理解しようと努めますが、だいたいうまく行かない。

それぞれに味方がある。視点によって違う。それに一人ひとりが意味づけして、自分の世界を形成している。いろんな見方がある。

最近では、それが当たり前、というスタンスでいいのかな、思うようになりました。

人間は太古の昔からそう。特に変わっていない。こんなことを思っても、特に世界は変わらない。変えられるのはせいぜい自分(それもほんの少し)だけ。

そうしたらなんとなく、気をもまないで毎日を過ごせるようになりました。

大事なのは、だれも悪意をもってそうしているわけではない。その場その場の選択は、決して間違いとは言えず、同情すべき事が多いということですね。

「そういうふうに思っているんですね」、とまずは共感することが大事なのだな、と思うようになりました。

「解釈モデル」とでも言うんでしょうかね。

妻との会話

いつも妻に、いろいろ相談されたあとに、「じゃあこうすればいいんじゃない」って素早く提案して、解決した気になっていることがありますが、だいたいその後妻は不機嫌になっています。

職業病かもしれませんが、、

最近ようやくわかったんですが、これは、解決法を望んでいるんじゃないんですね。

傾聴することが大事って、よく言いますよね。

でもこれって、なんとなく腑に落ちない感じがしていました。

大事なのは、こう言う理由でこう思っているんだね、と、その過程を一緒にたどることではないのかと思いました。

まず、一緒に体感してほしいんですよね。子どもが授業参観に来てほしい、運動会に来てほしい、というようなイメージで。

その後に、一緒に解決策を考える、というような過程を経ないと、コミュニケーションって取れないんですね、きっと。

終わりに

なんか今日はとりとめもなくなってすいません。

科学を社会実装するための戦略、方法論って、ないんでしょうかね。

ここを埋めるキーマンが、いないような気がするんですよね。政治家と科学者の橋渡しをするような科学者が必要な気がします。

もう少しこういう視点で色々考えて、また何か書きたいと思います。

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